NHKの2013年の大河ドラマ「八重の桜」も、前半の戊辰戦争の話が
佳境に入った。
その前から気になっていたのだが、山本八重の使ったスナイドル銃なのだが、
購入のエピソードの「どうしてドイツ人の商人から」というのを見て、
「そういえば、戊辰戦争(1868-69)に、米国の南北戦争(1861-65)の
余剰銃があまり見られないのはなぜか?」という疑問が出てきた。
それで思い出したのが「昔、コルトの本を買ったような?」である。
本棚から発掘されたのが「別冊GUN コルトのすべて(国際出版発行)」
である。

この本をしみじみと読んでみると、なかなか面白いことが判ってくる。
幕末の日本における拳銃は、中国・ロシア向けにS&Wが輸出していた
ものの一部が入って来たNo.1フレームと2フレームが有名である。
そう「坂本竜馬が持っていた」拳銃である。
コルトの拳銃は日本の幕末の歴史に何も関係していないのだろうか?
21世紀になって良かったこと(?)は、コルトのその時代の製品の
モデルガンを手に取って味わうことが出来るという幸福もあるので
地味に歴史的年表との関係も調べてみた。

下からパターソン(1836)ウォーカー(1847)M1851NAVY(1850-73)
ここで、サミュエル・コルトの話を少し。
サミュエル・コルトは、1814年にハートフォードで生まれた。
いろいろとあって、16才のとき(1830)に世界を見るために船員に
なったのだが、その船の上で思いついたパーカッション式のリボルバーの
1835年に英国、フランスで特許を取得。
それを背景に米国でも特許を取得。
その間、試作してきたものを1836年に本格的な製品にするのである。
という「超省略型前提知識」を元に、各モデルと時代背景に入る。
1.パターソンモデル(1836-41)

当時の米国で工業化が進んでいたパターソンにおいて製造されたのが
コルト初の量産モデルのパターソン・モデルである。
ハートフォード(紛らわしいがこれは現代のメーカー名(笑))の
製品は、No.1~5までのモデルの5(36口径)を製品にしている。
手に取ってみると小柄で携帯性の良さを感じる。
大柄で単発のパーカッションの拳銃が主流の中で、5連発のこの
銃は威力を発揮したことだろう。
歴史背景:
1836年(米)アラモ砦の戦い=>テキサスが独立
(独)ドライゼ銃(近代的ボルトアクションライフル)
1837年(日)大塩平八郎の乱
1842年(米)パテントアームズ社倒産
時代背景的には、コルトの商品は有益なものであったはずだが、
受け入れられるまでに時間がかかったのか?放漫経営か?で
倒産してしまった。
その頃の日本は、大きな出来事は大塩平八郎の乱くらいで、まだ
海外からの圧力はこれから?という状態であった。
2.ウォーカーモデル(1847)

コルトそのものは倒産してしまったが、製品はしっかりと受け入れ
られて、特にその後も戦乱が続くテキサスにおいて成果を上げた。
結果、1846年にウォーカー大尉からの申し入れを受け、威力のある
44口径の「コルト史上最大の拳銃」であるウォーカー・モデルが
軍用に1000丁、民間向けに100丁生産された。
ハートフォードの製品化したウォーカーを見ると「デ、デカ!」と
驚き、プラ製であるにもかかわらずズッシリと重い。
実物は2kgもあるとのことであるが、これを2丁持って戦場に行った
ウォーカー大尉はズッシリとくるこの銃に満足を感じたのだろうか?
(ちなみに、そのときの戦闘でウォーカー大尉は戦死)
歴史背景:
1846年(日)黒船が浦賀に来航
(米)米墨戦争勃発
テキサス独立に続き、メキシコと西海岸側の州の独立を巡る戦争は
1848年まで続く。
時代背景的には、強力な打撃力のある火器を要求していた。
そして、西海岸側を手中にすることにより、米国はいよいよアジア
への進出を開始する。
西海岸への白人の進出は、現地のアーリー・アメリカンとの衝突を
生み、火器の需要はますます高まっていくことになる。
3.M1851NAVY(1850-1873)

あまりにデカく重いウォーカー・モデルを改良したドラグーン、
そしてこの手の製品では一番売れた1849ポケットを経て、
M1851NAVYが登場する。
NAVYは海軍というより、36口径を意味するようになり、
44口径はARMYと呼称されるようになった。
この製品はCAWのもので、手に取ってみるとかなりすっきりと
していて、なるほど「これなら安心だ」という気持ちになる
拳銃ではある。
歴史背景
1853年(日)黒船来航、開港を迫る
1854年(日)日米和親条約
1857年(英)セポイの乱
1858年(日)日米修好通商条約
(日)安政の大獄
1860年(日)桜田門外の変
1861-65年(米)南北戦争
1868-69年(日)戊辰戦争
CAWのM1851NAVYは実はかなり前の製品で、入手するのに
時間がかかった。
それでも入手したかったのは、上記の年表に関係してくるから
である。
1854年のペリー来航時に、徳川将軍へのおみやげ品として、
このM1851NAVYが数丁渡されたのだが、そのうちの1丁が
水戸藩に渡り、それをコピーした銃で行なわれたのが、
桜田門外の変なのである。
当日は吹雪で火縄銃ではどうにもならない天候であったが、
パーカッションの銃ならば使用可能である。
剣の腕前には自信のあった井伊直助でも、この近代的で威力の
ある銃(コピー品の性能は実際は??だが)で一撃されたら
ひとたまりもなかったであろう。
ここで、コルトが日本史の重大事件に登場する。
水戸藩のコピー銃、最近になって日本人のコレクターがその
存在を公開したが、「大阪のコレクターって?」と思った
ら、やはりお宝鑑定団でおなじみの澤田先生であった。
その話の中に「材質は銀」とあるのだが、強度的に問題が
なかったのだろうか?
これだけ混乱した日本であるから、英国や米国は武力で・・
となりそうであるが、当時の船舶の輸送力問題もあるが、
英国はセポイの乱(実はこの戦争も発端は銃なのが皮肉)
米国は南北戦争・・となれば、どうしようもなかったのだろう。
結果として、「日本は相手国の事情に救われた」ことになる。
それにしても、米国の南北戦争終結で余剰になった銃はどこに
行ったのか?もっと日本に入ってきていても良かったのでは
ないか?
興味は尽きない。
その後の日本の歴史に出てきた拳銃は?

S&W No.3を経て、自国生産の拳銃は1893年
その後の日本は、やはりS&Wの拳銃が主流で、スコフィールドになる
前のNo.3フレームが海軍で採用になった。
そして、その一部機構を参考にした26年式拳銃が制式になった
のは1893年のことであった。
隣の国の主流の拳銃が、日本ではまったく出てこないというのは
ある意味で面白いことである。
最近のコメント